馬城会瓦版2020 第15号~「相中相高八十年」より 創立期2~

記念誌「相中相高八十年」より (創立期その2)
            

中村-岩沼間開通式と常磐線全線開通

 常磐線の水戸−岩沼間の建設工事が着工されたのは、1895(明治28)年のことで、2年後の1897年には、水戸−平間、平−久之浜間に続いて、岩沼—中村間が11月10日に開通した。
 この日、中村駅の貨物庫内で行われた「中村岩沼間鉄道開通式」の様子と町民の熱狂ぶりを新聞は次のように伝えている。

 午前6時25分福島発と、9時10分仙台発の列車が、岩沼駅に10時に到着した後、招待者等200余名を乗せて中村行の列車が発車した。
 「始めて汽車の通する事とて、耕せるものは鍬を捨て、織れるものハ杼を措きて、暫く此盛況を見むと欲し」「海老腰の翁媼相顧みて感歎し、無邪気の小童手を挙げて喜び躍る」なかを午前11時30分、列車は「長蛇一帯、高く黒煙を吐きて」中村駅に到着した。
 乗客もはじめての体験のために「取締りの巡査に向ひて『旦那さん、コレを買ひましたがコンナもので乗れるのでムりませうか』と問ふものあれば、汽車より降りて改札の際に『私は鑑札(切符)を坐敷(車室)の中へ置いて来ました』と言へるもの」などが多かったのも当然のことであろう。 
 開通式は正午から沿道各地方の有力者等500余名が列席して行なわれ、東京精養軒の西洋料理の立食などもあった。会場には「前庭高く幾丈の大緑門に大国旗を交叉し『祝開通』と記せる大額を掲け、五色の幔幕を打廻らし、又数十条の綱を張りて無数の球燈飾った」。
 町内では「数百発の烟花は朝来絶間なく閃々天に輝き空を彩りて観無比」であり、宮城少年音楽隊の演奏、中村町の紅裙の手踊、神楽、いろいろな見世物興行、餅撒きなどがあり、各商店なども店に飾りつけをした。
 「当日同町の群衆者ハ実に3万余人と称せられ、敢て絶後とは断ずべからさるも、地方未曾有の盛況と言ふべかりしものにて、夜に入りてよりもますます賑やかに雑踏を極めて通行さへ自由ならず」 (『福島民報』11月13日)

 当時は、中村-岩沼間に新地、坂元、吉田、亘理の4駅が設けられ、「何れも所在地市街より離れて殆んど無人の境に」あった。また、阿武隈川鉄橋は東北地方で最長であった。
 続いて、本校が創立された翌1898年には、4月中村-原町間、5月原町-小高間が開通し、8月23日に至って常磐線(当時は日本鉄道磐城線もしくは海岸線とも称した)は全線が完成した。
 客車は箱型で、現在のように真中の通路がないかわりに、全体に出入口があり、椅子はたたみ張りであった。列車のスピードは時速約30キロ、夜はランプをつけたが、昼はトンネルに入ると真暗であった。原町小高間の運賃は6銭であった。


           (6月25日 転記文責 村山)