馬城会瓦版2020 第17号~「相中相高八十年」より 創立期4~

記念誌「相中相高八十年」より  (創立期その4)
 

 第1回生の修学旅行
 
 第1回生が5年生になったときには、10日間の修学旅行が東京・鎌倉方面を目的地として実施された。このように長い日程の旅行は、明治期ではこの回限りで、あとは4、5日が限度であった。
 1902年4月27日出発、28日から30日まで東京市内見学、5月1日鎌倉、2日横須賀、3日横浜と見学して再び東京に戻り6日まで滞在、6日帰途に水戸を見学し、夕方帰校という日程であった。
(『吉田巌(註)旅行年譜』に詳細な見学地の記録がある)
 鎌倉の見学を中心にした毛筆の文集『記念之松』が残されているので、旅行の一端を偲んでみる。 

 東京は名にし負ふ帝国の大都、巍々たる大家高楼軒を並べ、其建築頗る壮麗を極め、電線ハ蜘蛛の巣の如く、人馬縦横織るが如く、或は腕車を飛ばして走るなり。或は黒塗の二頭馬車を走らして行くなり。其千状万態なる実に奇といふべきか。
 殊に幾千の煙筒空を陵ぎ、吐く所の黒烟天一面にたな引きて、日光ために遮られ四隣朦朧たるを覚ゆ、而も図書館、博物館等の設備一と志て学問修業に好都合ならざるはなし。 (北野忠助(註))
  
 5月1日は午前4時すぎ起床、神田駿河台の旅館浩養館を出て、麹町を経て新橋駅に着く。ここで「火輪車に身を投じ」て鎌倉に向った。「汽笛の声に新橋を発したるは午前7時27分なりき」「常磐線とは異り、其勢とて何かは及ぶべき」と感じたのである。あるいは品川沖に「軍艦の煙を吐きて大海の上を逍遥する様を見ては、日清の役の事思ひ出で、この波涛を超て行き吾同胞の中に水漬屍と消えはてて、二度と此地に帰らざる亡き人の霊魂に感謝の意をやりなど」 (志賀清身(註))

足弱の我なれば労れて動かぬ程になり、一丁後れ二丁後れ、遂にハ折笠君と只二人になりぬ。時立つ毎に弱り行きて、路傍に息ふ時ハ土地より生ひた物の如くになり、何時立ち歩むにやと自分にて疑ひし事さへありき。……八幡宮の前まで来しに最早足動かぬ程つかれけれバ、車にて宿屋まで帰りぬ。(吉田長定(註))                      

 鎌倉の旅館は稲勢屋「宿館にかえる。時に6時半。一日の疲労を一浴の中に流し、遂に晩餐を喫す」「食フコト餓鬼の如ク、給仕スル下婢ヲシテ驚キ嘆キシム」

 既にして館中歌声興り、交々吟じ、交々笑ひ興ずること限りなし。兎角する間に9時ともなりぬ。然れば、女中に命じて夜具をのべしめ寝床に臥せば、幾多の山水彷彿として表れ、鎌倉英雄眼中にあり。 (梅田 清(註))  
 例によりて外出は9時までなれども唯一人として外出する者なし。日頃と事変りて今日ハ床に就くや否や寝入りたり。 (大内三郎(註))

 (註) 会員名簿による出身地 吉田巌:鹿島、北野:飯豊、吉田長:双葉大野、梅田:上真野、大内:飯豊

                             (6月26日 転記&文責 村山)