馬城会瓦版2020 第14号~「相中相高八十年」より 創立期1~

記念誌「相中相高八十年」より (創立期その1)       

             
 記念誌は、1978(昭和53)年5月7日、正に八十年の創立記念日に発行されている。
 学校史編纂の企画がたてられた1972年、編集が具体化した1974年から、のべ20名の方々が、6年余りの歳月をかけてまとめた435ページ、初の学校史であるという。
 その中の文章の一部、記録、新聞記事や思い出の記などから、私見で、抜粋、省略して、転記し、先輩方の瑞々しい日々を顧みてみようと考えた。
 ただし、縦書き、漢数字での表記を、私の都合で、横書き、算用数字に変更しました。そのため、言葉のニュアンスや感じ方、時代の印象が微妙に違ってきます。その点はどうかご容赦いただきたいと思います。

 本校創立期の相馬地方

 1907(明治40)年、相馬郡は4町24カ村からなり、総人口は約9万人であった。町政を最初に定めたのは中村町で、1889(明治22)年、その後1897年に原町、翌年本校創立の年に、小高町、鹿島町がそれぞれ町制をしいた。
 人口の多い順に町村名をあげると、中村町7802人、小高町5492人、石神村5405人、原町5136人、松ケ江村4272人、上真野村4147人、大甕村4064人などであった。
 中村町をはじめ、小高、原町、鹿島、新地に郵便局ができたのは1873(明治6)年のことであった。最初は郵便だけを扱ったが1891(明治24)年に電信電報、1909(明治42)年に電話が開通した。
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 相双地方に電気会社が設立されたのは1910年(または11年)のことであった。しかし、電灯の光の恵みを享受できたのは市街地の一部だけで、農村部などでランプ生活が無くなるには、まだまだ時間を要したのである。
 銀行が設立されたのは、本校創立の前年に中村町の相馬銀行が最初で、その後2、3年のうちに小高銀行、小高商業銀行、原町銀行が発足した。
 福島県ではじめて野球が行なわれたのは1894年、自転車が入ったのは1901年、活動写真(映画)が上映されたのは1905年のこととされている。映画はもちろんサイレント映画であるが、同時に「発音器」も公開されている。
 日清戦争と日露戦争の間にはさまれた、本校の創立期は、鉄道を中心に紡績、銀行、石炭、船渠、電気などが企業化された、いわゆる日本の「産業革命」の時代にあたっている。
その波が相馬地方にも及んだことがこのようなことがらから推察できる。


(註) 日清戦争 1894(明治27)年7月〜1895(明治28)年4月
    日露戦争 1904(明治37)年2月〜1905(明治38)年9月
                             (6月24日 転記文責 村山)