最近の話題

馬城会かわら版2021 第78~80号

馬城かわら版第78号.pdf

戦時体制下の相馬中学校 8 学徒動員:五年生( 相中第43期生 )①福島日東礦工業(現・日東紡績)へ出動

 

馬城かわら版第79号.pdf

戦時体制下の相馬中学校 8 学徒動員:五年生( 相中第43期生 )②春光寮(福島日東礦工業敷地内)での生活

 

馬城かわら版第80号.pdf

戦時体制下の相馬中学校 8 学徒動員:五年生( 相中第43期生 )③紅会(くれないかい)

同窓生のみなさまへ「馬城会名簿作成のお知らせ」

 このたび、令和4年度版馬城会名簿を発行する運びとなりました。

同窓生の皆様には、名簿掲載内容の確認ハガキや名簿購入の案内状を発送して作業を進めてまいりますので、

ご協力のほどお願いいたします。

 第一次確認ハガキの一斉発送は3月31日です。

 名簿作成は、正式な同窓会事業として株式会社サラト(兵庫県姫路市)に委託しております。

馬城会名簿発行告知文.pdf

馬城会かわら版2020 第44号~第51号

馬城かわら版第44号.pdf

明治期・大正期の生徒数(その1)~明治期の生徒在籍数と卒業生

馬城かわら版第45号.pdf

明治期・大正期の生徒数(その2)~明治期の年度別・学年別の及第生・落第生比較表

馬城かわら版第46号.pdf

明治期・大正期の生徒数(その3)~大正期の生徒在籍数と卒業生

馬城かわら版第47号.pdf

明治期・大正期の生徒(イラスト相高100年より)~服装

馬城かわら版第48号.pdf

明治期(創立期)~大正期~昭和(戦中まで)の年表 ~明治期(創立期)

馬城かわら版第49号.pdf

明治期(創立期)~大正期~昭和(戦中まで)の年表 ~大正期

馬城かわら版第50号.pdf

明治期(創立期)~大正期~昭和(戦中まで)の年表 ~昭和期(昭和20年まで)

馬城かわら版第51号.pdf

第1回相高アート展

馬城会かわら版2020 第34号~38号

馬城かわら版第34号.pdf

野球部OB定期戦(対原町高)

 

馬城かわら版第35号.pdf

遠藤苔伯さん文化・スポーツ知事感謝状受賞

 

馬城かわら版第36号1.pdf 馬城かわら版第36号2.pdf

大正期(その6)~弁論部の活躍

 

馬城かわら版第37号.pdf

志賀洵州教室書道展

 

馬城かわら版第38号.pdf

大正期(その7)~中学生気質

 

馬城会瓦版2020 第20号 馬城会第1回理事会報告

令和2年度馬城会総会は書面表決に!
              
馬城会第1回理事会

 7月9日(金)午後1時から、相馬高校の「若駒会館」において、年度当初の予定通り、第1回理事会が開催された。馬城会本部の役員(会長、副会長、監事、顧問の学校長、事務局長)と各支部長、相馬支部役員14名と事務局から3名が参加した。

 母校の今野直樹事務局長が進行。佐々木政喜副会長の開会のことばから始まり、会長あいさつでは、新型コロナウィルス関連によるこれまでの各支部総会の中止、延期の状況、7月2日に行われた会計監査、2月の理事会での議論から生まれた「馬城瓦版」の報告等をした。
 次に、菊田校長先生から、151名が入学し、全生徒数が459名であること。4月21日からの臨時休業、6月1日から通常授業、6月8日から部活動開始、授業は7月31日まで延長との報告等があった。
 主な議事は、次の2つである。議長は会長がつとめた。
  1 8月22日予定の総会にかける議案の審議
     令和元年度の事業・決算報告
     監査報告(遠藤政弘、青田秀満、臺内吉重)
     令和2年度の事業計画(案)、収支予算(案)(事業計画の一部の文案の修正があり)
  2 総会を予定通り開催するかどうか
     この件について、各理事からの意見を伺った。
     新型コロナウィルスの現状と感染リスクを考えると、8月予定の総会は開催できない。      
    しかも、最近、東京都で感染者は100名越えで、増加傾向が続いている。
    したがって、書面による表決にするべきであるとの結論に一致した。
     表決する書面は、各支部の役員全員と例年総会に参加していた会員、参加する予定の会
    員等に送付することになった。 

 その他では、菊田校長先生から、県議会で、荒秀一議員(相馬・新地選出)から現在第二校舎となっている旧相馬女子高校校舎の解体等について、質問があったという報告があり、佐々木理事等からも過去の経緯についてのお話があった。

 自己紹介も含めて、出席者全員から、何らかのご意見等を伺うことができた理事会であった。
 最後に、岩井雄一副会長が、会を締めた。
                 
(7月14日 村山記)

馬城会瓦版2020 第19号~「相中相高八十年」より 創立期6~

記念誌「相中相高八十年」より (創立期その6)

 第1回生の進学学校別統計

  下記は、1910年欄による統計表の一部から転記したが、馬城会会員名簿の記載と幾分異なるので、

概要資料として見ていただきたい。

 

  東京帝國大学       7      東京高等商業学校   2     神戸高等商業学校    1     

   陸軍士官学校       6     陸軍経理学校     2     台湾国語学校          1 

   臨時教員養成所      4     慶応義塾大学     2     東京商業教員養成所  1

   早稲田大学        3      慈恵会医学専門学校    2     林業講習所                1

   仙台医学専門学校   3      東京高等工業学校       1     海軍兵学校                1

   盛岡高等農林学校     3      東京農業専門学校        1     東洋協会学校            1

   東京外国語学校         2      京都高等工業学校        1   

 

 卒業生入学学校別統計(第14回生までの統計と推定される)

 下記は、『学友会雑誌』第15号に記載されていた第14回生までと推定される統計から引用した一覧の抜粋である。約半数が進学している。ただし、所在地複数?と思われるもの、省略されたり名称は、当時と現在のものとが混在していた。そこで、できるだけ当時の名称に変更してみました。『学友会雑誌』であり、記念誌編集時に分かりやすく?変更したものもあると思われる。

 いずれにしても、進路状況は、現在の中国、台湾など広域にわたり、驚嘆すべきものである。

 

  師範学校本科二部(註1) 113      東京帝国大学実科(註2) 8      外国語学校    5

  東京帝國大学       27      東京高等工業学校       8      國學院大学    5

  仙台医学専門学校     26      東京高等商業学校    7      主計候補生     4

  仙台高等工業学校     21      慶応義塾大学      7      千葉医学専門学校  4

  士官候補生        20      東京高等師範学校    6      台湾國語学校         4

  盛岡高等農林学校     19      東京蚕糸学校      6      慈恵院医学校         4

  早稲田大学        15      商船学校        6    臨教養成所          3

  東北帝国大学実科(註2)     12      水産講習所       6      小樽高等商業学校     3

   高等学校(註3)                  10     歯科医学校      6      旅順工科学堂         3

 海軍兵学校                        8      東亜同文書院(註4)    6      他23校35名 総計408名

 

 (註1)当時の中学校卒業を入学資格とする。師範学校は、卒業後教職に就くことを前提に授業料がかか   

    らず、生活も保証されていたという。近隣には、福島県師範学校、宮城県師範学校など。

 (註2)農科大学実科と思われる。

 (註3)旧制高等学校 第一高等学校(東京)、第二高高等学校(仙台)、第三高等学校(京都)など

 (註4)上海

 

                            (7月1日 転記&文責 村山)

馬城会瓦版2020 第18号~「相中相高八十年」より 創立期5~

記念誌「相中相高八十年」より  (創立期その5)

 相馬中学校大運動会

 運動会の具体的内容が明らかなものは、1901(明治34)年5月4日に開催されたものが最初である。
 下記によれば、参観人一万人というから、当時の中村町の人口より多く、最も人気のあった行事の一つだったのであろう。
 
 同校にては創立3週年に相当するを以て記念式を行ひ、兼て皇孫御降誕の御慶事を祝さん為め、
去る4日を卜し校庭に於て大運動会を開催したり。
 先ず校の入口には『記念式』なる大額を掲げ、武装の人形兵士之を門守し、大々的緑門を建て、
又会場前にも大額、大緑門、武装の飾り物あり、場の正面には横二間長さ三尺程の白布に『創立記念碑』の5大文字を書したるを壇上高く掲け、西方には『弘法大師の大夜造りのへちま畑』と称してコンボーにて瓢棚を築き翠葉滴らんとする計り。
 尚来賓席上にも藤園に凝して日覆を造り、裏門二ケ所にも同様額面及アーチの用意をなし、会場には各国の国旗を高く掲げ、大達磨の飾物を据ゆる等、其装飾の壮大なるには何れも一驚を喫したる程なり。 
 斯くて午前9時より運動に着手し、棍棒、韓信、旗取、武装、二人三脚、母衣、擬馬源平、片脚、蛙飛、協力、盲目、数字、来賓競争等、其他十数種を演じ、来賓競争には参観のため臨場したる中村高等尋常、八幡尋常校の職員生徒も加わりき。
 最後の優等者駆足競争には4学年生氏家某に勝点を占められ、校長の胴上げ杯ありて、其勝敗を決したる時の如きは快哉を叫んで拍手喝采、恰かも百雷の轟くが如くなりし。
 此日参観人無慮一万人の多きに及び、実に近来無比の大盛会にてありしが、参観人の重なる人々は、部長、判事、検事、林区署長、警部、各高等小学校、各町村長、町会議員、其他知名の紳士等百余名にして、来賓には茶菓及昼餐を饗応せり。
 当日の経費総計は二百余円にて、職員より金弐拾円、其他悉皆寄付金より成れるものなりと。
                              (『福島民報』5月8日)

(6月28日 転記&文責 村山)

馬城会瓦版2020 第17号~「相中相高八十年」より 創立期4~

記念誌「相中相高八十年」より  (創立期その4)
 

 第1回生の修学旅行
 
 第1回生が5年生になったときには、10日間の修学旅行が東京・鎌倉方面を目的地として実施された。このように長い日程の旅行は、明治期ではこの回限りで、あとは4、5日が限度であった。
 1902年4月27日出発、28日から30日まで東京市内見学、5月1日鎌倉、2日横須賀、3日横浜と見学して再び東京に戻り6日まで滞在、6日帰途に水戸を見学し、夕方帰校という日程であった。
(『吉田巌(註)旅行年譜』に詳細な見学地の記録がある)
 鎌倉の見学を中心にした毛筆の文集『記念之松』が残されているので、旅行の一端を偲んでみる。 

 東京は名にし負ふ帝国の大都、巍々たる大家高楼軒を並べ、其建築頗る壮麗を極め、電線ハ蜘蛛の巣の如く、人馬縦横織るが如く、或は腕車を飛ばして走るなり。或は黒塗の二頭馬車を走らして行くなり。其千状万態なる実に奇といふべきか。
 殊に幾千の煙筒空を陵ぎ、吐く所の黒烟天一面にたな引きて、日光ために遮られ四隣朦朧たるを覚ゆ、而も図書館、博物館等の設備一と志て学問修業に好都合ならざるはなし。 (北野忠助(註))
  
 5月1日は午前4時すぎ起床、神田駿河台の旅館浩養館を出て、麹町を経て新橋駅に着く。ここで「火輪車に身を投じ」て鎌倉に向った。「汽笛の声に新橋を発したるは午前7時27分なりき」「常磐線とは異り、其勢とて何かは及ぶべき」と感じたのである。あるいは品川沖に「軍艦の煙を吐きて大海の上を逍遥する様を見ては、日清の役の事思ひ出で、この波涛を超て行き吾同胞の中に水漬屍と消えはてて、二度と此地に帰らざる亡き人の霊魂に感謝の意をやりなど」 (志賀清身(註))

足弱の我なれば労れて動かぬ程になり、一丁後れ二丁後れ、遂にハ折笠君と只二人になりぬ。時立つ毎に弱り行きて、路傍に息ふ時ハ土地より生ひた物の如くになり、何時立ち歩むにやと自分にて疑ひし事さへありき。……八幡宮の前まで来しに最早足動かぬ程つかれけれバ、車にて宿屋まで帰りぬ。(吉田長定(註))                      

 鎌倉の旅館は稲勢屋「宿館にかえる。時に6時半。一日の疲労を一浴の中に流し、遂に晩餐を喫す」「食フコト餓鬼の如ク、給仕スル下婢ヲシテ驚キ嘆キシム」

 既にして館中歌声興り、交々吟じ、交々笑ひ興ずること限りなし。兎角する間に9時ともなりぬ。然れば、女中に命じて夜具をのべしめ寝床に臥せば、幾多の山水彷彿として表れ、鎌倉英雄眼中にあり。 (梅田 清(註))  
 例によりて外出は9時までなれども唯一人として外出する者なし。日頃と事変りて今日ハ床に就くや否や寝入りたり。 (大内三郎(註))

 (註) 会員名簿による出身地 吉田巌:鹿島、北野:飯豊、吉田長:双葉大野、梅田:上真野、大内:飯豊

                             (6月26日 転記&文責 村山)

馬城会瓦版2020 第16号~「相中相高八十年」より 創立期3~

記念誌「相中相高八十年」より (創立期その3)

 

  第1回生161名入学(福島縣第四尋常中學校)

 

 『学友会雑誌』第31号、「思ひ出のまにまに」に、第1回生の佐藤董(註1)が書いた一節です。

 顧みれば明治31年の4月母校が呱々の声を中村の地に揚げた時、新入学生の募集が行はれ、我こそはと思う面々誰彼が志願した。

 いよいよ授業が開始せられたのは5月からで、入学を許可せられた者が、百数十名、ここに甲乙丙3つのクラスが編成せられて、僅かに数名の教師に教を受くる事になった。クラスの仲間は百人百色混合種、驚いたではないか、その中には嘗ては役場の書記であったといふ者、小学校に教職を奉じたといふ者、余所の中学で何年か学んで新に建て直しに来たといふ者、もしくは小学校卒業の後幾年か鋤鍬を手にして田圃に腕を磨いたといふ若者、過去の経歴を聞いてみれば調べてみれば、それはそれは雑然混然たる大勢であった。

 従って年齢も不揃、旧制高等2年(今の尋卒と同年)から来たといふのが僅かに数名で最も少数、大抵は高等小学校卒業生で16歳前後である。中には高等卒業後数年を経過した猛者もいれば、徴兵検査が疾うに終ったといふ青年連も交じって居た。

 教室は満員箱詰めの蜜柑のやうにぎっしりとつめ込まれて窮屈ではあったが、苦中快あり、生まれて初めてAだのBだのと海の彼方の言の葉を教えられる得意さといったら、これ亦生まれて初めての珍事であり、快事であった。

 校舎は今の中村第一小学校旧校舎の南側の一棟で、余は丙組、丙組は西の一室で小使室に近い所、もとより堂々たる借家であるから校庭はあっても使えず、便所は殆ど小学校と共同、運動場は名だたる中村城趾、風致と歴史とを併有する長友や二の丸は意のまま気まま我々一百有余名の若人によって朝な夕なに蹂躙活歩せられたのである。

 

  第1回生の卒業55名(註2)(福島縣立相馬中學校)

 最初の入学者161名に転編入学者を加えた182名から、転退学者と落第者との合計127名を差引いた55名が、5年間で卒業したものである。

 ・・・・・

 第1回生55名の卒業時の平均年齢19歳9カ月、最年長者は……25歳4カ月、最年少者は17歳1カ月であった。また、彼らが4年生になった4月の、平均身長157.3センチ、最高168.8センチ、最低145.2センチ、平均体重50.8キロ、最高65.3キロ、最低36.4キロであった。

  (註1)  佐藤董(出身地は大野、後に本校教諭:馬城会会員名簿より)

    (註2)  馬城会会員名簿では、56名となっている。

                             (6月26日 転記&文責 村山)

馬城会瓦版2020 第15号~「相中相高八十年」より 創立期2~

記念誌「相中相高八十年」より (創立期その2)
            

中村-岩沼間開通式と常磐線全線開通

 常磐線の水戸−岩沼間の建設工事が着工されたのは、1895(明治28)年のことで、2年後の1897年には、水戸−平間、平−久之浜間に続いて、岩沼—中村間が11月10日に開通した。
 この日、中村駅の貨物庫内で行われた「中村岩沼間鉄道開通式」の様子と町民の熱狂ぶりを新聞は次のように伝えている。

 午前6時25分福島発と、9時10分仙台発の列車が、岩沼駅に10時に到着した後、招待者等200余名を乗せて中村行の列車が発車した。
 「始めて汽車の通する事とて、耕せるものは鍬を捨て、織れるものハ杼を措きて、暫く此盛況を見むと欲し」「海老腰の翁媼相顧みて感歎し、無邪気の小童手を挙げて喜び躍る」なかを午前11時30分、列車は「長蛇一帯、高く黒煙を吐きて」中村駅に到着した。
 乗客もはじめての体験のために「取締りの巡査に向ひて『旦那さん、コレを買ひましたがコンナもので乗れるのでムりませうか』と問ふものあれば、汽車より降りて改札の際に『私は鑑札(切符)を坐敷(車室)の中へ置いて来ました』と言へるもの」などが多かったのも当然のことであろう。 
 開通式は正午から沿道各地方の有力者等500余名が列席して行なわれ、東京精養軒の西洋料理の立食などもあった。会場には「前庭高く幾丈の大緑門に大国旗を交叉し『祝開通』と記せる大額を掲け、五色の幔幕を打廻らし、又数十条の綱を張りて無数の球燈飾った」。
 町内では「数百発の烟花は朝来絶間なく閃々天に輝き空を彩りて観無比」であり、宮城少年音楽隊の演奏、中村町の紅裙の手踊、神楽、いろいろな見世物興行、餅撒きなどがあり、各商店なども店に飾りつけをした。
 「当日同町の群衆者ハ実に3万余人と称せられ、敢て絶後とは断ずべからさるも、地方未曾有の盛況と言ふべかりしものにて、夜に入りてよりもますます賑やかに雑踏を極めて通行さへ自由ならず」 (『福島民報』11月13日)

 当時は、中村-岩沼間に新地、坂元、吉田、亘理の4駅が設けられ、「何れも所在地市街より離れて殆んど無人の境に」あった。また、阿武隈川鉄橋は東北地方で最長であった。
 続いて、本校が創立された翌1898年には、4月中村-原町間、5月原町-小高間が開通し、8月23日に至って常磐線(当時は日本鉄道磐城線もしくは海岸線とも称した)は全線が完成した。
 客車は箱型で、現在のように真中の通路がないかわりに、全体に出入口があり、椅子はたたみ張りであった。列車のスピードは時速約30キロ、夜はランプをつけたが、昼はトンネルに入ると真暗であった。原町小高間の運賃は6銭であった。


           (6月25日 転記文責 村山)

馬城会瓦版2020 第14号~「相中相高八十年」より 創立期1~

記念誌「相中相高八十年」より (創立期その1)       

             
 記念誌は、1978(昭和53)年5月7日、正に八十年の創立記念日に発行されている。
 学校史編纂の企画がたてられた1972年、編集が具体化した1974年から、のべ20名の方々が、6年余りの歳月をかけてまとめた435ページ、初の学校史であるという。
 その中の文章の一部、記録、新聞記事や思い出の記などから、私見で、抜粋、省略して、転記し、先輩方の瑞々しい日々を顧みてみようと考えた。
 ただし、縦書き、漢数字での表記を、私の都合で、横書き、算用数字に変更しました。そのため、言葉のニュアンスや感じ方、時代の印象が微妙に違ってきます。その点はどうかご容赦いただきたいと思います。

 本校創立期の相馬地方

 1907(明治40)年、相馬郡は4町24カ村からなり、総人口は約9万人であった。町政を最初に定めたのは中村町で、1889(明治22)年、その後1897年に原町、翌年本校創立の年に、小高町、鹿島町がそれぞれ町制をしいた。
 人口の多い順に町村名をあげると、中村町7802人、小高町5492人、石神村5405人、原町5136人、松ケ江村4272人、上真野村4147人、大甕村4064人などであった。
 中村町をはじめ、小高、原町、鹿島、新地に郵便局ができたのは1873(明治6)年のことであった。最初は郵便だけを扱ったが1891(明治24)年に電信電報、1909(明治42)年に電話が開通した。
 ・・・・・
 相双地方に電気会社が設立されたのは1910年(または11年)のことであった。しかし、電灯の光の恵みを享受できたのは市街地の一部だけで、農村部などでランプ生活が無くなるには、まだまだ時間を要したのである。
 銀行が設立されたのは、本校創立の前年に中村町の相馬銀行が最初で、その後2、3年のうちに小高銀行、小高商業銀行、原町銀行が発足した。
 福島県ではじめて野球が行なわれたのは1894年、自転車が入ったのは1901年、活動写真(映画)が上映されたのは1905年のこととされている。映画はもちろんサイレント映画であるが、同時に「発音器」も公開されている。
 日清戦争と日露戦争の間にはさまれた、本校の創立期は、鉄道を中心に紡績、銀行、石炭、船渠、電気などが企業化された、いわゆる日本の「産業革命」の時代にあたっている。
その波が相馬地方にも及んだことがこのようなことがらから推察できる。


(註) 日清戦争 1894(明治27)年7月〜1895(明治28)年4月
    日露戦争 1904(明治37)年2月〜1905(明治38)年9月
                             (6月24日 転記文責 村山)

馬城会瓦版2020 第13号~バッティングマシン~

バッティングマシン

 今年の春も、相馬の空はいつものように青く澄み、白い雲がゆっくりと流れ、里は、青葉若葉のあらゆる緑に囲まれていた。
 しかし、日本列島は、桜前線どころか連日、新型コロナウィルスに翻弄され続けた。
 馬城会も、3月に予定されていた新地支部総会は未定の延期、4月25日の仙台支部総会は秋に延期、また、例年創立記念日の5月7日開催の原町支部総会は中止となった。
 2月から書き始めたこの馬城瓦版、休業要請があった訳ではないのだが、新型コロナウィルスの自粛ムードに乗って(?)4月中旬から2か月余りも中断してしまった。

 5月のある日、母校を通りかかっても、生徒たちの声はなく、校庭には草が生え出していた。季節も時間もが止まっていた。
 6月1日(月)から平常授業に戻って通学する高校生の自転車姿は、やっと日常が少しだけ戻りつつあり、希望の光を感じさせてくれる。
 8日(月)からは、部活動の練習も再開したということです。校庭ではバットの打球音が、体育館ではバレーボールのアタック音、音楽室では吹奏楽の楽器の音、そして何よりも後輩の若者たちの声が響いているものと思っています。
 そうした中、前馬城会副会長さんで前馬城会相馬支部長の立谷さんが、母校野球部にバッティングマシンなどを寄贈した記事が、9日の新聞に載りました。 
 夏の甲子園大会はないけれど、県大会は7月18日から、県内6球場で1日2試合、3回戦まで実施し、保護者は2名まで観戦できるとある。
 新しいマシンや防球ネットで、気持ちも新たに若駒たちが躍動することと思う。

馬城会瓦版2020 第12号~令和2年度入学式 祝辞~

           令和2年度入学式

 4月8日午後2時から入学式が行われました。定員160のところ新入生は151名でした。
 馬城会長とPTA会長の口頭による祝辞も省略、入学式のしおりに印刷され全員に渡されました。 
この情勢で保護者さえも出席が叶わず、来賓も数名のみ、私は急用ができ出席できませんでした。


            祝     辞
                                馬城会会長 村山正之 
 新入生のみなさん、ご入学、真におめでとうございます。
 コロナウィルス感染防止のため、出席が叶わなかったご両親は、君たちが新たなステージの入学式に向かう成長した後ろ姿に、感慨も一入だったことと思います。

 15歳から18歳の年代は、あなたの人生の基を形づくる最も重要な3年間なのです。
いろいろな変化を新鮮にかつ鋭敏に感じ取ることができる柔軟な心を持っているからです。
 高校の3年間は、大人への階段をゆっくりと、毎日わずか一段ずつ上ったとしても、
年に365段、卒業までにおよそ1000段も上れる期間です。
1000段上ったあとに見える周りの景色は、劇的に変化しているはずです。
  一生付き合える仲間に巡り会うこともあるでしょう。
  尊敬できる誰かにも巡り会う喜びもあるでしょう。
  立ち上がれないような苦しさに出会うこともあるでしょう。
 心も身体も大きく変化する3年間、勉学、スポーツ、文化活動など何かに没頭して、
一段ずつ進みながら、出会いの日々を楽しみ、苦しみもがいてください。
そして、自分の進むべき道を探し出してください。

  一、馬陵の城の 名に負える    六、仰げば理想の 峯高く
    春の若駒 勇ましく        俯せば学びの 海深し
    克己の鞭は 風を切り       天籟地癩  凝りなせる
    進取のあがき 雲を呼ぶ      正気の剣  身に佩きて
    同窓九百の 健男児        立てや九百の 健男児  

 さて、入学式にあたり、すぐ練習が始まるであろう「校歌」についてお話します。
 詞は、第一節から第六節まであり、七五調を基本に構成されています。
私たちの時代もそうでしたが、現在も、第一節と最後の第六節が歌われています。
 第一節は、生徒を若駒になぞらえ、克己、進取などの気風が著してあります。
第六節は高い理想を持ち深く学問探求すべきとの期待が、格調高く詠われています。
リズム・メロディは、勇ましく、風を切り、の詞に相応しい躍動感があります。
作詞は、当時、福島縣立相馬中學校(5年制)の教師であった吉成新太郎先生、
作曲は、福島縣師範学校教諭の渡邊貞雄先生でした。


 校歌は、1908年(明治41)に誕生したとあります。
2008年には、創立110周年と同時に校歌制定100年の記念式典も行われました。
県内の高校では、最も古い校歌であるということがその時の記念誌に載っています。
誕生から110数年経っても、ほとんど当時のまま歌い継がれている貴重な校歌です。
時代を越えた普遍的な何かを持っている校歌だからでしょう。

 学校の応援の場ではみんなの心を一つにする校歌、卒業生も一瞬にして相高時代に戻れる校歌、県内の高校では最も歴史のある校歌、馬城会では必ず歌われる校歌です。
 詞の内容、リズム・メロディ全体から何かを感じ取り、心の底から歌ってください。  
誇りを持って、大切に歌い継いでいきましょう。

馬城会瓦版2020 第11号~母校周辺の桜遠景~

 馬陵城址から母校を望む

 参道の桜と母校

 参道

 二の丸の桜とお堀

 二の丸球場

 4月、桜吹雪の中で、原町高校と野球の定期戦が行われ、
 新入生は応援練習の成果を発揮していた舞台だった……。

 (4月10日 村山記)